オープン度合いとコミュニティ規模

2009/7/26-1

最近、「オープンこそ善」を過度に意識し過ぎているのではないかと思える事例に出会う事が多いです。 どこまでオープンにするかは各個人の趣味なので、ある程度は良いのですが、オープンにし過ぎる事はリスクが伴われます。 また、全く同じ立場でもコミュニティの規模に応じてオープンにする度合いを徐々に調整するというノウハウは必要だろうとも思います。

さらに、時期によってもオープン度合いは変えて行く必要が出るかも知れません。 最初のうちは、可能な限りオープンにしておき、注目されたりコミュニティ規模が大きくなると共に徐々にオープン度合いを下げて行くような要素が必要になりそうです。

コミュニティ規模とオープン度合いの調整

何かをオープンにするという行為と相手にするコミュニティの規模には関連があると私は考えています。 コミュニティが巨大ではないフェーズでは、可能な限りオープンにする範囲を広く取るべきだと思います。 その方が情報が正しく共有され、意思決定が迅速に進み、コミュニティ全体の一体感が生まれ、コミュニティそのものの魅力が上昇すると思われます。

しかし、コミュニティ規模が巨大化すればするほど、オープンに出来る物が制限されていくと思われます。 個々人の思想や趣味のバリエーションが増えますし、各自の利益も多様化します。

極端な言い方をすると、ちょっとした情報を公開してしまったがために、何かがつぶれてしまう事もあります。 また、コミュニティが小さい頃は絶賛されていた「正直な意見や感想」も、コミュニティ規模が大きくなると炎上の素になる場合もあります。

オープンにすることの匙加減は非常に難しいと思います。

「オープン」とは何か?

まず、そもそも「オープン」とは何でしょうか? 「オープンだ」と言われている多くの物にも「クローズド」な部分が含まれる事が多いです。 例えば、「オープンソース」と言っているソフトウェアであっても、規模が大きくなれば「開発」や「全体設計」や「全体的な方向性決定」に関しては特定の権限を持つメンバーだけが決定するようになります。

ソースコードの改変がオープンなのは素晴らしいことで、社会にとって非情に重要な役割を果たしているオープンソースソフトは数多くありますが、そのソフトウェアそのものの思想や設計や方向性は無制限にオープンというわけではありません。 実力を示して行けばコミュニティの一員として認めてもらって、最終的には中心メンバーまで出世できるようなオープンソースソフトウェアもあれば、バグ修正パッチ以上のものは望まれていないオープンソースソフトもあります。

オープンな標準化団体

「オープン」である標準化団体であっても、最終的に何をどのように標準化するかは秘密会議で全て決定してから公表されたり、決定しないにしても原案の道筋は特定メンバーだけで作ってしまう事が多いです。

議論の過程の多くの部分がオープンにされていたり、最終的に出来上がった仕様書がオープンであるのは素晴らしい事です。 しかし、それは「全てがオープンである」という事を意味するわけではありません。 規模や影響範囲が大きくなり過ぎると、オープンな物にもクローズドな部分はどうしても発生せざるを得ません。

ただ、気をつけなければいけないのは仕様が無料公開されるという事は本当に素晴らしいということです。 最近は「仕様書はオープンが当たり前」と信じている方々も多い気がしますが、オープンにされていない仕様やフォーマットは非常に多いです。 例えば、○○コンソーシアムに加入しなければ仕様書を見られないとか、安くて数百ドルを払わないと仕様書を購入出来ない場合があります。 もしかしたら、オープンな仕様とクローズドな仕様では、クローズドなものの方が全体としては多いのかも知れません。

余談ですが、「インターネットはオープンなプラットフォームだ」とか「インターネットってオープンなのに何で接続料徴収するんだよ!」という表現をたまに目にしますが、オープンなのは既に出来上がった仕様書などがメインであって、全ての回線そのものが完全にオープンというわけではありません(i.e. 商用回線が無条件でオープンであるわけがありません)。

オープンにもクローズドな部分が含まれる

要は、「オープン」とは「全てがオープン」なのではなく、「○○という部分がオープン」というオープンである場合が多いです。 そういう意味では、完全に全オープンという物の例を私は知らないかも知れません。 「オープンだから」といっても事例毎にクローズドな部分はどうしても発生してしまうので、そのクローズドな部分とは何かを見て行くのも興味深いのかも知れません。 利害関係者やコミュニティ規模がクローズドな部分を構成させるスパイスになっている場合もありそうです。

ただし、オープンさに関しての度合いという意味で、従来に比べると非常にオープンであるという事例は色々あります。

人間の「オープン」

人間に対しても恐らく同様で、「自分の生活までオープンにしている」と思っていても「クローズド」な部分は存在します。 ある意味究極のオープン度合いといえば、素肌まで全てオープンな状態のビデオ出演のかも知れませんが、それにしても特定のクローズドな環境で生成されたパッケージ製品なのかも知れません。 また、生成された成果を見たいと思う人は多くても、そこまでを自らオープンにしようと思わない人も多いような気がします。

ブログやtwitterを見ていると、多くの人の反応を得る快感を追求するために必要以上に多くの内容をオープンにしてしまっている人を発見する事があります。 まるで身を削ってネタを絞り出しているように見えます。 個人的イメージを絵にするとすれば、鶴が自分の羽根を抜きながら反物を織っている状況でしょうか。

さらに困るのは、他人のクローズドな部分を勝手にオープンにしてしまう人です。 自分の部分だけであれば良いのですが、他の人を巻き込み出すと違った問題を発生させてしまいます。

最後に

と、ここまではオープンに関するネガティブな話ですが、何故人々がそこまでオープンにするかというと、きっと「オープン」であることに強い力があるからです。 「オープンにすること」には巨大な魅力があり、そうすることで注目を集めたり、利益を誘導したりすることも可能です。 例えば、人がしていないような部分を上手に「オープン」に出来れば、それだけで注目を集めて何か大きな事柄を成し遂げるきっかけになるかも知れません。

また、オープンにすることで社会や多くの人々に貢献できるという面もあります。 例えばオープンソースソフトウェアは、いまや非常に重要な社会インフラの一部と言えます。

必要なのは「何をオープンにするか」に関してのあらかじめの考察と意思決定というフェーズが入ることなのだろうと思います。 さらに、今あるコミュニティの規模に応じてオープン度合いを調整して行く事も求められるのだろうと思います。

あまり深く考えずに、どんどんオープン度合いを無限に広げて行くのは危険だと個人的には考えています。 しかし、そこら辺は趣味なので、何でもかんでもオープンにするのが良いという思想もアリだとは思います。

オープンにすることは素晴らしい事です。 しかし、情報の伝達速度が飛躍的に向上し続け、一度出てしまった情報を取り消すことがほぼ不可能になってしまった現在は、意図しない「オープン」はあまりに威力があり過ぎると思う今日この頃です。

最近のエントリ

過去記事

過去記事一覧

YouTubeチャンネルやってます!