今のネットは多様性を殺すかも

2009/5/11-1

最近、「今のネット環境は多様性を殺しているのかも知れない」と思う事があります。 何か特定の表現をすると「ぐわーーー」っと批判的な人が発生して、集中的に誰かを批判する状況を目にする事が多いです。 そして、そのスクラムを恐れてネット上での発言内容に関しての多様性は抑制されるのかも知れません。 このような状況が生まれるのは「顔が見えない」というネットコミュニケーションの特徴が影響を与えているのかも知れないと考える事があります。

脱個人化作用と一体感

ネット上でのコミュニケーションでは、ある程度の匿名性や実名であったとしても「顔が見えない」ことによってリアルなコミュニケーションとは違ったコミュニケーションが形成されがちです。 例えば、目の前に大学教授や社長がいたとして「ちょwwww、自重しる」と目を見て言える人が何人いるでしょうか? 不思議な事に同様の行動をネット上で平気で行う人は非常に多く存在しています。

「目の前にいない」ことによって脱個人化作用(Deindividuation)が促進されるという研究もあります。 脱個人化作用は、個人が集団の一員となって「集団の規範」に従う事を要求するような「場」を作り上げます。 そして、そのような「場」では個人の意見ではなく、集団の規範やその場のノリなどが優先されるような雰囲気が出来上がります。 この状況を「空気」と呼ぶ人もネット上にいます。

2チャンネルで全員が同じような口調や表現を使うのも、脱個人化の一種だろうと思われます。 同様に、特定の場で何とかして無理矢理でも駄洒落を言わなければ浮いてしまうというのも、この一種かも知れません。

脱個人化作用は、参加メンバーの「一体感」や「集団の魅力」を上昇させるという研究もあります。 ネット語を皆で使っている時の高揚感というか一体感というのも、実はこの一種なのかも知れません。

そして、脱個人化作用による「集団の規範」を守る事を強いる状況は、各個人による主張などの多様性を減少させる方向へと作用するのではないかと最近私は考えています。

半年間ROMれ

「半年間ROM(Read Only Member)れ!」というのはネット初心者に対する一般的なアドバイスです。 まずは、最初は遠目にネット上でのやり取りを見て学べ、という意味です。

これは、ネット上でコミュニケーションをするには非常に有効なアドバイスだと思います。 不要な紛争を避け、ある程度の安全を確保しながらネットコミュニケーションを行うには必要なフェーズです。

しかし、実はこれは「我々の作法を見よう見真似で習得しろ」と言っているのと同義かも知れません。 要は、脱個人化を促進するためのアドバイスかも知れないという事です。

半年間ROMってネットでのしきたりを身につけた新ユーザは、さらに新しく入って来た初心者を「ネット流」に仕立てるために教育を行うのだろうと思われます。 そして、ある種どこかで画一的な味を持つ表現者が増えて行きます。

似たようなものとして、RTMF(Read The Manual First)やググレカスという表現もあります。 これらは、どちらかというと先人の知恵を自分の力で調べてから質問して、他の人の手を煩わせるべきではないという思想が強いものですが、実は「半年間ROMれ」と同じような作用があるのかも知れないとも思いました。

強いもだけが生き残る

特定のコミュニティから見て「変わった」主張をする人が全くいないわけではありません。 心臓に毛が生えているような「強靭さ」を兼ね備えた人は、いくらネット上で批判されても自分の主張を続けられるように見えます。

そのような「打たれ強さ」と「極端さ」を両方とも兼ね備えたような人々がネット上で特に目立つのかも知れないと思う時があります。 ただ、そのような打たれ強い方々がバシバシ攻撃されるのを目の当たりにした多くの観衆は、自分が同様に批判されるのを恐れてしまい、特定の方向性の主張は自重するようになってしまうという効果もありそうだと思います。

褒めると批判される

ある特定のネットコミュニティに好まれない表現をしている人を褒めるだけで批判されることもあります。 それによって、まわりは特定の意見に賛成的な考えを持っていても褒める事を躊躇する場合もありそうです。

そういえば、2年前に「My Life Between Silicon Valley and Japan : 直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」という記事が話題になっていましたが、恐らく「褒める」ことによって批判される場合もあるという点も「褒める」ことに対するバックプレッシャーになる場合があるのかも知れないと、この文章を書いていて思いました。

もちろん、普通に褒めて良いことは多くあります。 しかし、褒めても大丈夫なものと褒めると自分に槍が飛んでくるかも知れないものがあるという点では、多様性への影響はあるのかも知れません。

異文化に「届いた」ために発生する場合

長い間、何も問題なくオンライン上で活動していた人に対して突如として大量の批判が集まる事があります。 信じる物が違う人同士が出会ってオンライン上で一向に噛み合ない議論を延々と続けているような場合、そもそもの議論の発端が「異文化に情報が届いてしまった」という理由がありそうです。

信じるものや職業や趣味や嗜好や思想などが異なると、全く意見が噛み合ないことがあります。 そして、ネット上では同じような趣味を持つ人はクラスタを構築して集まる傾向があるため、全くの異文化に関する情報が異文化へと伝わると、摩擦が発生するという状況がありそうです。

国や文化によって変わりそう

通信という意味では、今でもあらゆる言語の情報にアクセスが可能です。 しかし、今は言語の壁のおかげである程度は世界がセグメント化されています。 例えば、日本語で書いた個人のブログが外国で勝手に翻訳されて晒されて炎上するという事例はあまり聞いた事がありません。

自動翻訳技術が人間による翻訳と変わらないぐらい飛躍的に向上したり、検索エンジンがいつでも勝手に単語を翻訳して検索してくれたり(今ある関連検索という範囲を超えてという意味です)、母国語と英語以外の情報をひたすら巡回して仲介するような人が増えたり、したときに世界がどうなるのか私には想像もつきません。

もし、ネットにおける言語の壁が技術で全て解決されるような事があれば、きっと今よりも多様性を殺す方向性は強くなるのではないかと勝手に予想しています。 例えば、定食屋で食べた料理の写真を公開しただけで文化が違う人から激しく批判されるような事もあり得るかも知れないと感じています。

そしてSNSへ逃げ込む

「ちょっと当たり障りがありそうな内容はmixiで」という使い分けは良く目にします。 これは、きっと「異文化交流」を避ける為の自己防衛なのだろうと思います。 オンライン上に情報を出す限りは「完全な安全」というのは存在しにくいのでしょうが、少なくとも検索エンジンには載らないので、オープンなブログなどと比べると予期しない「異文化交流」が発生する確率が減少するのかも知れません。

多様性が増える面もある

この文章は多様性が否定される側面に強くフォーカスして書いています。 フォーカスを変えると、恐らく多様性が生まれるという文章も書けそうです。 例えば、今までは声を上げることが出来なかった職種の方々が自分専用のメディアを持つ事によって既存メディアに対抗できる武器が増えたという視点もあり得ます。

恐らく、「○○に関しては多様性が減る」「××に関しては多様性が増える」という場合分けがあり、画一的に「全ての場合において多様性が減る」というわけでは無いと思われます。 と言いつつも、自分を含めて様々な人々が意識せずにネット上のタブーを構築しているんだなぁと感じた今日この頃でした。

いや、でも、これってネットに限らず世間一般としてそういう傾向になる場合があるという話なのかも知れないですね。。。

追記:2009/5/28

書き直しました:ネットコミュニティと同調圧力

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