「ネットはゴミだらけ」を考える

2017/9/25-1

「ネットはゴミだらけ」ということが話題になることが増えてきました。 今も昔も、ネット上にあるコンテンツが玉石混淆であることは変わりません。 ある程度探したいものが明確であり、かつ、キーワードもわかっていれば、今も昔も変わらずにネット検索は可能です。

しかし、何かは確実に変わっているように思えます。

そうやって考えていると、そもそも、Webの世界で実現される夢として語られていた「群衆の叡智」というのは、あの当時の熱狂を背景として専門家がダンピング的に専門知識をネット上に掲載していたから実現したことであって、それが永遠に続くわけではないのかも知れないと思い始めました。 叡智を目指したはずが、営利へと主軸が変化していくなかで、2000年代の熱狂と夢から覚めつつある人々が「ネットはゴミだらけ」という感想を発している場合もありそうです。

さらに、「ゴミだらけ」になった背景であったり、「ゴミだらけ」だと思われることによって、専門家がネット上に情報を掲載するモチベーションが下がる可能性もありそうです。

あの頃の流れを振り返る

2000年代は、世界中が「インターネットは素晴らしい」という熱狂に包まれていました。「インターネットは世界を変える」とも思われていました。実際に変えたと思いますが。

インターネットの利用が急激に拡大し、ネットバブルが崩壊した数年後ぐらいから「Web 2.0」という単語が流行りました。 当時、一部の人々が趣味でWeb上に残す記録(log)ということで、Weblogがblogになり、それが「ブログ」として最先端の活動でした。

おなじような頃に、友だちの友だちをたどると誰にでも到達できるという「六次の隔たり(Six Degrees of Separation)」が注目されていました。 友だちの友だちを6ホップすると、米国大統領であってもつながっていることがわかるという、「六次の隔たり」は、ハーバード大学のStanley Milgram教授が1969年に行った社会学の研究がもとになっています。 グリー株式会社の「GREE」も、六次の隔たりの「Six DeGREEs」という単語の一部を抜き出したものであることからも、当時、「六次の隔たり」が大きな話題であったことがわかります。

「スモールワールド現象」も、当時は注目されていました。「スモールワールド現象」に関しては、スタンフォード大学のMark Granovetter教授が1973年に書いた論文が有名です。 その論文では、282人のホワイトカラー労働者を無作為抽出して、現在の職を得た方法を調べています。 その結果、家族や肉親などの「強い紐帯」よりも、たまにしか会わなかったり単に知り合い程度の「弱い紐帯」の間柄の人々による紹介で職を得た人が多いとしています。 このことから、「弱い紐帯」であるほうが職を探す際の良い紹介者となり得るとしています。 強いつながりの人々は同じ情報を共有していることが多く、新しい情報を得るには「弱い紐帯」のつながりが重要であるという「弱い紐帯の重要性」というものです。

いまのSNSは、ソーシャルネットワーキングサービスというよりも、ソーシャルコミュニケーションサービスのようになっていますが、当時は、人と人との繋がりが作る「ネットワーク」そのものがホットな話題だったのです。

群衆の叡智やソーシャルメディア

Web上で「場」を提供することで、ユーザがコンテンツを生成できるようにするCGM(Consumer Generated Media/消費者生成メディア)も、当時の大きな流れでした。

当時、多くの人々が知識を共有することで実現される「集合知(Wisdom of Crowds)」という表現が頻繁に語られていました。 集合知は、「群衆の叡智」とも言われていました。 多くの人々が知恵を出し合えば、素晴らしい情報が生まれると多くの人々が信じていました。 専門家の意見よりも、多くの人々の意見の方が正しいと信じている人々も多くいました。

個人的には、単に多くの人々を集めるだけではダメで、多くの人々に専門家が紛れていることだ大事だと思っていましたが、あまりその意見に賛同する人は当時としてはいませんでした。 そういえば、「Twitterは未来のインフラになる!」というイベントで登壇したときに、「Twitterは営利企業が運営しているもので、いつまでも続くという保証もないし、そもそも、Webサイトなので落ちることもある。インフラになる、というのは言い過ぎではないか」ということを言って白けさせたこともあります。 熱狂の中で、野暮なことは言うものではないのかもしれません。

当時、「誰が言ったかよりも、何を言ったかの方が大事」という意見も数多く語られていました。

広告とPVの魔力

「ブログ」という単語が流行る前は、「Webの日記」や「個人ホームページ」と呼ばれるものを作る動機は自己満足が多かったと思われます。 情報を発信することで生まれる交流が面白かったとか、みんなのためになる情報を作ることそのものが楽しかったというのがあります。 「それが楽しいから」というモチベーションでWebサイトを作っていたのです。 OSS(Open-source software)の開発を手伝うとか、OSSを作って配布するといった流れを、そのままWebサイトでの情報発信として行っているという側面もあったかもしれません。

私も、学生時代(1990年代)にIETFで議論が続いているRSVP(Resource Reservation Protocol)などに関するInternet draftの日本語訳をWebサイトに載せていたら、どこかの会社の人から質問メールが来たりしてました。 スリランカ風のカレーの作り方などもWebサイトに掲載していました。

2000年代になると、ユーザがコンテンツを生成するためのインセンティブとして、アフィリエイト(Web広告含む)も普及していきました。 このサイトもアフィリエイトは行っているので、その流れの中にいます。

非常に多くの人々の目に止まるコンテンツを生成した個人が注目されるような事例が増えていったのも、その頃だったと思います。

徐々に、CGMという表現が少なくなり、ソーシャルメディアという表現も増えるようになりました。 1990年代も「誰もが放送局」という表現はされていたので、発信するということに関しては変わってなかったのですが、それによって収益をあげるという部分を含めて「誰もが放送局」に近づいていったのかも知れません。

多くの場合、WebサイトにおけるPVが、そのままアフィリエイト収入の大きさに直結します。 より多くのお金を稼ぐためには、できるだけ多くの人々に見てもらうことが大事なのです。

もちろん、非常に時間をかけて「爆発的に伸びる記事」というのが良い場合もありますが、ひとつひとつの記事を作る時間は可能な限り短い方が儲けは大きくなりがちです。 自分で記事を書くのではなく、人々が書いた記事をまとめることに価値を出そうとする「キュレーション」という表現が注目されることもありました(本来の意味でのキュレーションと、ネット用語のように使われるキュレーションには差があると思いますが)。

PVや広告収入という数値で見える指標が非常に大きな意味を持ってしまうようになったので、その数値が目標になってしまうことが増えたのです。 広告やPVの魔力は強大なのです。

偽装ユーザの登場

そんな流れでユーザがコンテンツを生成することがドンドン大きな話になっていきましたが、それに伴って徐々にビジネスとしてユーザになりすましてコンテンツを生成する事業者も登場するようになりました。 世界的な話題になった事件としては、Megaupload運営者の逮捕があります。 FBIのプレスリリースによると、当時、Megaupload運営者がユーザになりすまして著作権侵害行為を繰り返していたとあります(参考)。

「著作権侵害を行っているのは私ではない。ユーザが悪い」という体裁で言い訳をすることが、一種のテクニックとして成立したのです。

つい最近も、上場企業であるDeNAが、クラウドソーシング(crowdsourcing)サイトなどで他人のサイトにあるコンテンツを盗用する形でコンテンツを作るような依頼を出すなどしてWELQというサイトを運営していたことが問題になりました。 「WELQ問題」とも言われています。 著作権侵害に対する指摘をしてきた権利者からの問い合わせに対して、自分たちで掲載させた内容であったにも関わらず、プラットフォーム提供者としてプロバイダ責任制限法の適用を受けているような対応をしていたことも、WELQ問題では明らかになっています。

コンテンツを作り出すことを一般のユーザが行うことが最先端だったのが、いつの間にか、ユーザのふりをして事業者が自ら行うような事例が明らかになることも増えていったのです。

SNSを活用した「動員」

人々の繋がりを可視化することを目的としていたソーシャルネットワークサービス(SNS)が、徐々にコミュニケーションツールとしての性格が強くなっていきます。

当初、非常に「ゆるい」雰囲気やサービスを大事にしていたTwitterが、ハドソン川に落ちた飛行機からTwitterへの投稿が行われた事例などによって「メディア」として話題になり、「動員」と呼ばれるような人々の視線を集めるようなツールとしても使われるようになっていきました。 Twitterは、最初は非常にマイナーなWebサービスというイメージもあったので、芸能人や政治家がTwitterでアカウントを作っただけでニュースになりました。 アカウントを作っただけでニュースになることは、いまでは想像しにくいと思いますが。

その後、FacebookやInstagramなども流行りますが、ひっそりと使うユーザと、ひっそりと使っているユーザのアテンションを獲得したい事業者や人々が使うといった形が増えていきます。

特定のWebサイトなどに誘導するためにSNSが使われることも非常に増えました。 いまや、そういったWebサービスは、動員や誘導のためのツールでもあるのです。

リスクの増大

主にTwitterに投稿された写真などによって炎上が発生したため、Twitterをバカが使うという意味で「バカッター」というネット用語があります。アルバイトとして働いている途中に不適切な投稿を行うことによって店舗に悪影響を与えるので「バイトテロ」と言われることもあります。

このような「バカッター」や「バイトテロ」で有名な事例としては、2013年にアルバイトの大学生が蕎麦屋の食器洗浄機に入っている写真を投稿した事件があげられます。その写真がまたたく間にネットで拡散され、蕎麦屋に対して不衛生であるという批判が殺到しました。その問題がきっかけとなり蕎麦屋は破産し、アルバイトの大学生は損害倍賞請求の訴訟を起こされました。

同様の問題によって閉店した飲食店は他にもあります。2013年、ステーキレストランチェーン店でアルバイト店員がキッチンにある業務用冷蔵庫に入っている写真を投稿しました。その写真もネットで拡散されてしまい、その店舗は閉鎖されてしまいました。

ネットにおける炎上状態は、実世界にも影響することがあります。 炎上してしまう側は、一度の炎上でダメージを受けてリングから退場してしまうことが多いのですが、炎上を煽る側はお祭り騒ぎに参加するノリの場合もあり、何度も炎上を経験してノウハウを蓄積していることもあります。どのような抗議行動を起こされると炎上対象の実生活に影響があるのかに関して、過去の経験から学習しているのです。

よくあるパターンとしては、明確な連絡先が存在するような組織に関連する炎上であれば、そこに対して苦情電話が殺到します。 匿名の誰かが、抗議先の電話番号リストを作成し、それを広める場合もあります。

スポンサーが存在している組織であれば、スポンサーに対する抗議電話が殺到することもあります。 抗議先の電話番号一覧の中に、スポンサー名が含まれることもあるのです。 たとえば、「御社がスポンサーしている○○が××という社会通年上許されない行為を行っている。御社は、そういった行為を協賛しているのか?」といった具合の問い合わせを行う人がいます。さらに、スポンサーに対する不買運動の呼びかけや、スポンサーの商品等の悪口が意図的に書き込まれることもあります。

このような抗議活動の結果として、炎上しているのが組織であれば取引先を失い、個人であれば組織から除籍されることもあるのです。

20年前と比べて、ネットに書かれた内容を転載する方法が簡単になったのも、情報の「拡散」が加速した要因です。 20年前は、ネット上で情報発信をするためには、ある程度のIT系知識が必要でしたが、いまでは誰でも簡単に情報発信が可能となりました。 炎上するような投稿をする側も指先ひとつの操作ですが、炎上へと事態を煽ったり加速させたりする行う側も、指先ひとつで「拡散」を行っているのです。

このように、ネットにおいて何らかの発信を行うリスクが昔よりも増大しました。 「ネットの怖さ」に関して学校で教えるようにもなっています。

ネット炎上リスクに関して考えて情報発信を控える人もいると思いますし、そもそも情報発信なんて怖くてできないという人もいるでしょう。そういった背景もあり、昔よりも情報が出にくくなっている可能性もあります。

あの頃の雰囲気はもう来ない

これからブログを開始するときに、「影響力」であったり、「お金」といった要素を考慮することが増えています。 昔は、物好きが勝手に発信しているという側面が強かったのですが、これからブログを開始する人は、どうやって稼ぐか、どれだけ稼げたか、どれだけ注目を浴びることができたか、どれだけの影響力を持ったか、などを重視することが増えています。

何が稼げるかから逆算してコンテンツを作るのは、書きたい内容があるから書いていたら読者が増えて、その結果としてアフィリエイトで収入が増えたのとは、プロセスが全く逆です。 「ブログでこれだけ稼ぎました」とか、「ブログを開始して◯ヶ月で□PV達成」のような記事が目立つようになってしまい、「ブログをやろうとする人ってお金儲けが目的?」といった雰囲気も増えました。

さらに、情報としての正しさよりも、多くの人の目に止まることの方が大事になってくるので、間違っていてもかまわないから「売れる」内容が重視されていってます。

そして、昔を知っている人々が「ネットはゴミだかけ」とか、「ググレカスではなくググってもカス」と言い始めているのですが、そういった発言が積み重なることで、「ネットに書くのがカッコ良い」とか「ネットに書くことそのものが楽しい」といった価値観は昔よりもさらに生まれにくくなってそうです。

私のまわりを見ると、かつて若者だった人々が年齢を重ねることで仕事や家庭や生活における責任が重くなり、昔のようにネット上に多くの情報を掲載しなくなることも増えているように思えます。 当時、「群衆の叡智」を実現していた人々が、徐々に情報発信をやめているのです。

次の世代が昔と同様に情報発信をするのかと考えると、情報発信をするためのモチベーションが別の方向に行きやすい環境があるので、昔とは違った雰囲気ができあがっています。 「デジタルネイティブ」という表現が一時的に流行った頃がありましたが、ネットが存在しなかった世界にネットが登場したときの熱狂や価値観は、次の世代には引き継がれないので、「そこにあるのが当然」のものに関しては、そもそも興味を持たないことも多いのです。

「ネットがゴミだらけ」という表現に関しても、かつてのネットに対する熱狂を知っていて、インターネットというものに対しての独特の価値観を持つ世代が持ちやすい感想なのかも知れないと、最近は思います。

そして、何を「ネットのゴミ」であると判断するのかは読者次第です。 読解と感想は読者側の権限です。 この記事自体も、「ネットのゴミ」を増やしているだけという感想を持つ人もいるのだろうと思います。

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