法律よりも強い強制力

2009/8/30-1

昨日「ネットでは「誰もが有名人」である」という記事を書いたのですが、その後さらに色々と考えました。 私が書いた「各自が自発的にネット上での発言内容に注意すべき」という話は突き詰めて行くと、見えない圧力によって法律の枠を超えた恐ろしく強い強制力が働く社会が出来上がってしまうのではないかと思いました。

以下、私の妄想の中身です。

誰もが「有名税」の束縛を受ける世界

有名人と言えば有名税という束縛があります。 何かをすると非常に注目を集めてしまい、行動も通常の人よりも慎重に行わなければなりません。

例えば、未成年アイドルなど芸能人は喫煙や飲酒が全国的なニュースになってしまいます。 未成年の喫煙や飲酒が良い事だとは言えませんが、日本全国(もしくはインターネットを介して世界中)に対して晒されるほどの犯罪行為かと問われれば、そこまでの罪でも無い気がします。 街を歩いていれば制服姿で喫煙している人を目にすることがありますし、電車の中で高校生が飲み会の話をしていることもあります。 それを行っている人物が有名人であるか無いかで「ニュース性」が変わってしまい、あらゆることが問題化しやすくなるのだろうと思われます。

先日私が書いたのは、Webの世界においては「誰もが有名人になり得る」という話でした。 そうなると、今の世の中で「有名税」と言われている限定的な現象を、全ての人が経験し得る世界が来るということなのかも知れないと考え始めました。

Web2.0的相互監視社会

誰もが有名税に束縛される世界は、どのような仕組みによって実現されるのでしょうか?

「インターネット」という単語が一般的になりはじめた頃は「誰もが放送局になれる」という表現が色々な所で使われました。 それが恐らく15年ぐらい前だったと思います。

その後、21世紀に入ってブログが注目され、Web2.0と呼ばれる手法(or現象)が注目され、Twitterのように「今」を垂れ流す事が推奨されるウェブサービスのユーザが登場し、「誰もが放送局」という使い古された表現が現実味を帯びてきました。 秋葉原事件後に様々な人々がネットに情報を掲載したり、ハドソン川の飛行機事故がTwitterで伝わったりした事例は記憶に新しいと思います。

何気ない情報も全てオープンにされる世界では、ちょっとした天気の変化をリアルタイムに知ることが出来ます。 例えば、Twitterを見ていると自分の地域にいつ雨が降るか予想が出来るようになってきます。 複数の人々をフォローしつつ、各人の大体の現在地を知っている状態で「ゲリラ豪雨」という発言を多く見始めたら、洗濯物を取り込むなどの対応が可能になります。 あと、雨がどれぐらいの時間続くかも予想可能になる場合があります。 「雨やんだ」という発言を見始めた後に、各人の「ゲリラ豪雨」という発言との時間差を見ると自分の地域でどれぐらい雨が降るかの推測が可能になります。 最近は天気予報で晴れと言われつつ、自分の居る場所で1時間前までは晴れていたと思っていたのに、急激に天気が崩れる事もあり結構重宝しています。

でも、それって、誰かの非常に軽微な「犯行」も監視されて即座に報告されることを意味していると思います。 聞いた内容をそのままネット上に書き込む人々の存在は、ある意味盗聴マイクに近いのかも知れません。 さらに「面白い部分」ほど強調され、コンテキストを無視して切り抜かれたうえで、勝手に発信されがちです。 会話の中から、公に言うと失言っぽい部分だけが切り抜かれて発信する機能を持つ盗聴マイクが電車の中に多数設置されているようなイメージでしょうか。

さらに、犯罪ではなく、誰かを不満にさせるような行動も即座に投稿されてしまう可能性があります。 例えば、列に並んでいたら割り込まれた、隣のサラリーマンの居眠りが鬱陶しい、政府関係者らしき人が機密文章のようなものを読んでいた、酔っぱらいが騒いでいる、などの書き込みをTwitterで目にする機会があります。

色々知る事が出来る非常に便利なネットですが、知る事ができる「色々」には、知られると嬉しくない話題も含まれるということだろうと思います。

それは、ある意味、誰も制御していない、組織の全く無い巨大な監視網とも言えます。 監視カメラほど露骨ではないものの、観測地点が非常に増加すれば、様々な情報を集める事で重大な「何か」を掘り出せてしまう可能性を秘めています。

そして、文字で構成されたWeb上の投稿情報は、監視カメラの映像とは異なり「検索」が容易に実現可能です。 今まではアナログな壁のおかげで「干し草の山の中に隠れていた針」ですが、「検索が可能」ということによって「干し草に磁石を向けると針が自分から出て来る」状況になりつつあるのかも知れません。

無難な表現しか外では出来ない世界

記者会見や役所での回答は非常につまらないものが多いです。 基本的に無難で何の面白みもない文章しか出て来ないイメージがあります。

しかし、「何故そうなるのか?」を考えて行くと、「無難な事以外を言うと大変な事になる可能性があるから」ということがわかります。 例えば、記者会見で自分の立場上の正直な感想を少しでも述べようものなら、コンテキストを無視した形で特定の部分だけを切り抜かれて、本意ではない記事を書かれてしまう可能性があります。 何度か本意ではない経験をすると、いかに騒ぎを大きくしないかや、いかに騒がれないかという視点で文章を構成するようになっていくのではないでしょうか。

Web2.0的相互監視網が発展し、痛い目にあう人が登場しはじめると、人々は警戒するようになり、外では安心して会話がしにくい社会になってしまう気がしています。 言い換えると、記者会見や役所での回答のような「つまらない発表」や「つまらない文章」と同様の事しか、知らない他人が居る場では言えなくなってしまう可能性があるのではないかと考えました。

誰にいつどこで発言を切り取られてネットに掲載されてしまうかわからない社会の登場です。

危険運転とYouTube

本人ではない人物によってネット上に情報公開されてしまった事が原因で勤務先を懲戒免職処分になるという事例として、例えば次のようなものがあります。

J-CASTニュース:「当て逃げ」動画で大騒動 本人解雇、勤務先も謝罪

この事件は多少極端ではありますが、このように他人が映像を撮影して投稿することによって大きな「祭り」状態になることもあり得ます。 映像ではなく、文字という形態による情報発信でも同様の事は起こり得ます。

そして、一度ネット上で「祭り」や「炎上」という形で事件化してしまうと、法律による罰則よりも非常に重い結末になる場合もありそうです。

雷オヤジが絶滅

人を叱るというのは、自分の事を棚に上げて相手に注意をするという場合もあり得ます。 また、怒られた側には何故怒られなければならないのか納得が出来ない場合も多々あります。 私も子供の時に、近所の雷オヤジに怒られた時には「何でこんな事で怒られなければならないんだ?」と思った物ですが、今思えば当時の私のやっていた事は悪い事でした。

全くの見ず知らずの人を叱るためのリスクをあえて取れる人は減少傾向にありましたが、ネット上で叩かれるかも知れないリスクまで認識されてしまうと、本格的に絶滅してしまうのかも知れません。

そして、「リスクを可能な限り負わずに人を叱る」という方向を目指して、直接的ではないネット上での晒しや叱りが増加して行きそうです。 今までは現実世界で行われていた「社会全体による教育」や「地域による教育」というものがネット上に移動した感じになるのでしょうか。

その事がどのような変化を社会に起こし、それが好ましい事なのか、昔は良かった系の話になるのかは、時間が経過してみないとわからないと思います。 ただ、時間の経過とともに社会全体に様々な変化はありそうです。

最後に

この話は「ネットが悪い」というものでもないと思います。 恐らく、ネットが悪いのではなく、ネットが便利過ぎるのだろうと思います。 単に、今までは技術的に不可能であったために表面化していなかった人間の本質的に持っていた特性が表に出て来ているだけという気もします。

今のネットには大きな利点があることは言うまでもありませんが、利点を違った側面から見ると大きな欠点になることがあるということではないでしょうか。

このまま様々なことが進行して行くと、ネット上の行動だけではなく現実世界での行動に関しても恐ろしく慎重にならなければいけない社会が到来するのかも知れません。 今はまだライフログ的に何でもかんでもネット上に発信してしまうようなユーザはマジョリティではありません。 ただ、今後、携帯電話等の移動体通信機器を使いながら脊髄反射でネット上のプラットフォームに様々な事を発信するユーザがマジョリティになるとどうなってしまうのでしょうか? 考え過ぎだと良いと思うのですが、どうもこの傾向は止める事が出来ない流れである気がしています。

考えれば考えるほど後ろ向きな話になってしまいましたが、技術の進歩による極度の便利さは、ある意味恐怖の幕開けなのかもと思ってしまった今日この頃です。

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