日本でインターネットはどのように創られたのか?

2009/4/14-1

日本でインターネットはどのように創られたのか? WIDEプロジェクト20年の挑戦の記録」という本を頂きました。 研究室に数冊置いてあったものを1冊頂いた形です。 この本はWIDE Projectの20年史です。

個人的な感想としては、この本は全体的に歴史や研究内容が淡々と書かれている本という感じがします。 各節毎に別々の人が書いている事もあり、全体としての流れというものはあまり無く、一部報告書的なところもあります。 価格も3990円と高価で、恐らく数が売れないことを前提としているだろうと思えます。

しかし、一部の内容は本当に「日本のインターネットが出来上がっていく」という過程を技術者の視点から示したものです。 そのため、この本は日本でインターネットというものがどのように出来上がっていったかという話に関しての歴史書に近い部分もあります。 このような書籍が参考文献として参照できる形で出版されるという事にある程度の意味がありそうです。

この本は結構内容がマニアックな部分が多いので、個人的にライトでお勧めな記事を列挙してみました。 順番も個人的な趣味で変えています。

1. 間欠的なネットワーク接続 : ISDN

p.18 - 23

1986年にSLIP(Serial Line Internet Protocol)を使って9.6Kbpsモデムで大学構内でIP通信を実現した話から、それを発展させて公衆回線での通信を試みた話が最初に語られています。

次に、1988年に開始したINSネット64というISDNサービスを使って当時のバックボーン回線と同等の64Kbpsの通信速度を実現するための試行錯誤などが紹介されています。 また、当時は接続時間に対して課金される形式で、現在のような常時接続ではなかったため、不要になったら切断する間欠リンクとして回線を使用していたと述べられています。

さらに、128Kbpsでの通信をISDN上で実現するための試行錯誤や、合宿地での接続性確保についても述べられています。

2. 開発プラッドフォームとしてのPC-UNIX

p.61 - 66

個人がUNIXソースコードを見るのがほぼ不可能だった1980年代と、1990年代にBSDのソースコードが個人でも閲覧/改変ができるようになった話から、篠田陽一先生によるPCMCIAインターフェース機能の実装であるWildboarなどについて書かれています。 UNIXでPCMCIAカードの抜き差しが出来るようになるまでや、サスペンドを実現するまでの苦労が多く語られています。

なお、この章はハッカーであり尾張徳川家22代目である徳川義崇さん(tokugawa.orgのFAQ)が書かれています。

3. 日本インターネットレジストリの立ち上げ : NIC

p.151 - 152

日本国内のIPアドレス割当が当初はボランティアベースで行活動していた「IPアドレス割当調整委員会」で行っていた話や、徐々に専門的な機関が必要になって来て日本のNICを立ち上げた話が書かれています。

当初「JNIC」という名前で申請したらJordanやJamaicaと区別出来ないと言われて「JPNIC」とした話などが面白かったです。

4. コマーシャルインターネットサービスの開始

p.157 - 164

1989年に176サイトあったJUNETと、そのバックボーンの役割を果たしたWIDEインターネットの話に始まり、JUNETの解散、IIJの設立までが語られています。

ボランティアベースで運用され続けたJUNETの運用体制から、コマーシャルインターネットが必要となるまでの流れが面白かったです。 徐々に参加組織が増加していったことや、ボランティアによる運用の限界などが多く述べられています。

IIJの立ち上げメンバーの話や、郵政省とのやりとり、電気通信主任技術者の資格取得などの話も興味深いと思いました。

5. プロバイダ相互接続拠点の構築と運用 : IX Operation

p.184 - 188

商用ISPの登場とともに、学術ネットワークと商用ISPの相互接続をどのようにすべきかという問題となり、L3方式のNSPIXP-1(Network Service Provider Internet eXchange Point 1)がスタートした話や、その後のIX運用の話が述べられています。

peerやtransitなどの考え方が普及していない当時は、商用ISPにとって相互接続によって発生するトラフィックが「ただ乗り」のように思われていたので、それをどうするかに関して運用しながら考えていったという話が書かれています。 トラフィックが増加していったことによって徐々にNSPIXP-1の前提が崩れていき、日経系の雑誌に「日本のインターネットは、NSPIXP-1が悪くしている!」という記事が掲載されてしまったという話も書かれていました。

その後、NSPIXP-1での問題を解決するためにNSPIXP-2へと移行していった話や、NSPIXP-3と分散IXの話などが書かれています。 さらに、当初1台のEthernet HUBだった機器が、FDDI、GigaEthernet、10GigaEthernetへと変わっていった話や、1995年の写真などが掲載されていました。

個人的には、ここら辺の話は読んでいて面白い内容でした。

6. パソコン通信との相互接続

p.98 - 101

Nifty ServeやPC-VANとインターネットメールを相互接続する試みを紹介しています。 実現のためにsendmailに加えた改造や、漢字コード変換、メールタイトルに日本語が含まれているとエラーを起こすのでRFC1342をいち早く採用した話などが書かれています。

7. Root DNS運用者としてのWIDE

p.177 - 183

SunのYellow Pagesなどが利用されていて、DNSがあまり利用されていなかった時代の話から、日本でRoot DNSを運用し始めた話、Root DNSにおけるIPv6サポートの話などが書かれています。 この節を書いているのは、かつてエラーメールが全て転送されていく状態だったため「xx@jp (xxは存在しない任意のユーザ名)」というメールアドレスでメールが届いたという加藤朗先生です。

1997年5月にM-Rootサーバが日本で運用開始され、2002年にAnycast運用が始まるまではアジア太平洋地域で唯一のRoot DNSサーバであったことなどが書かれています。 2009年当初時点で世界のRoot DNSが167であることや、Anycastの簡単な解説も含まれています。

IPv6に関しては、512バイトを超えるメッセージを許容するEDNS0の普及を勘案してICANN boardで承認された結果、2008年2月に6つのAAAAアドレスがROOT-SERVERS.NETに追加された話などが書かれていました。

8. IPv6に関する研究開発活動

p.40 - 49

IPv6がプロトコルとして出来上がっていく話や、「IPv6参照プロトコルソフトウェアの研究開発と配布」のためのKAMEプロジェクトに関して記述されています。 さらに、Linux版のUSAGIプロジェクトや、検証/検査を行うTAHIプロジェクトも紹介されています。 当時、IPv6と言えば踊る亀でした。

2011年ぐらいに日本でのIPv4アドレスが枯渇すると予想されています。 「IPv4アドレスは枯渇しない」「やるだけ無駄」という意見も多く存在していたIPv6ですが、この本に書かれているような地道な努力が評価されるのは、IPv6が本格的に利用されるようになってからなのかも知れません。 10年以上も研究/開発/普及(デプロイ)を続けていた方々は凄いなぁと思える文章でした。

p.50に故itojunさんの話が1ページ書かれています。 私もitojunさんには非常にお世話になりました。 itojunさんと言えばIETFの会場などでも暇さえあればカーネルコードを書き続けていたり、ミーティングでは全ての発言をログとして保存したり、tcpdumpが大好きだったというイメージがあります。 故itojunさんは、私の中での3大geekの一人であり、一生あのレベルには追いつけないだろうと思う人でした。 こころからitojunさんのご冥福をお祈り致します。

おまけ:TV品質の映像配信システムの構築 DVTS

p.88 - p.93

当時通信総合研究所の研究員だった小林さんが「カーネルコード部分は書くけどアプリ部分は面倒」という事で1998年当時M1学生だった私がアサインされたのが私とDVTSに関わった経緯でした。 シカゴのIETFで中村修先生に呼び出されて、コーヒー屋さんでテイクアウト購入したコーヒーを飲みながら「お前?コード書ける?」と言われて「自信がありませんが。。。」というようなやり取りをしつつ「小金井に行って」と言われたような気がします。 当時のゴールはSuper Computer Conference 98(以下、SC98)でのデモでした(参考写真)。



p.92にSC98の話が書いてあるのですが、あのイベントが私にとっての初のイベントでした。 そして、人生でかなり上位を占める大失敗をしたイベントでもありました。 イベントは成功したのですが、かなりやらかしてしまいました。

SC98は、フロリダで開催されたのですが、当時助教授だった中村修先生(現在教授)とD学生だった杉浦一徳先輩(現慶應義塾大学KMD准教授)と私の3人がフロリダ会場へ行きました。 杉浦先輩はATMによるネットワーク設定を担当し、私は映像転送アプリ設定を担当していました。 この本ではSC98で利用されたのがDVTSだと書かれていますが、DVTSという名称はSC98の後のリリースで初めてつけた名称なので、SC98当時は単なるIEEE1394転送アプリでした。 アプリ名も「serv」と「client」でした。

その後、オープンソースソフトとしてリリースするには、あまりに酷い名称だということでDVTSという名前をつけました。 DVをTransportするSystemなのでDVTSです。 名前を何にするか悩んでいたら門林雄基先生が「深い事考えずにDV転送するシステムだからDVTSでいいだろう!」と言われて、確かにそうだと思ったのでそのままそれにしました。

まあ、それはいいとして失敗の内容ですが、あろうことか中村修先生に機材を購入しに走ってもらう事態になりました。 しかもフロリダ会場からニューヨークにまで行って頂いて。。。

当時、DVフォーマット対応商品は出たばかりでまだレアな商品でした。 M1学生だった当時の私は、助教授の先生が飛行機に乗って買い物に行く事をお願いしてしまうという状況にビビリまくってしまい、もう、その後はコマンド一つ打つのもシドロモドロ状態でキーボードを打つ時に「まあ、おちつけ」と言われたのを今でも覚えています。

このような状況は私の認識不足で発生してしまいました。 当時、私はイベントのためにかなりの時間をかけて準備をしていて、「これだけ準備をすれば、もう大丈夫だ」と根拠の無い自信を持っていました。 今思えば、それが失敗の始まりでした。

ビデオカメラにはIEEE1394端子(当時はFireWireと呼んでいました)から入力した物を表示する機能というのがあるのですが、SC98のデモでは大型モニターに映す必要があったのでDVカメラの液晶ではなく、RCA端子によるアナログ出力する必要がありました。

問題は持っていったDVカメラがIEEE1394端子から入力した物をRCA端子経由で出すと白黒になってしまうことでした。 開発はDVビデオデッキを使って確認していたのですが、本番はフロリダまでの荷物が多かったこともあり、パスポートサイズの小型DVカメラを持っていきました。 IEEE1394入力したデータをDVカメラがカメラの液晶部分に表示出来ていたので、あとはDVカメラからモニターに映すだけだと安直に考えていたのが敗因でした。 会場に入ってからセットアップを開始し、IEEE1394入力したデータをDVカメラでアナログ出力することが出来ないことに気がついて真っ青になりました。

結局、開発で使っていた物と全く同じDVデッキを調達して頂いたおかげで無事にイベントは終了しました。 会場で準備をしている途中に、もう真っ青でした。 p.88以降の部分は何か色々思い出すものが多い節でした。

最後に

大学が中心となった研究プロジェクトが20年も継続的に行われるというのは、通常はあまりありません。 そのような意味では、20年もWIDE「プロジェクト」が継続しているというのは凄いことだと思います。 一方で、プロジェクトというのは短期間で成果を出して次のプロジェクトを開始すべきだという考え方もあるようです。 そういう意味ではWIDEってプロジェクトというよりも、コンソーシアムに近い状態なんですかね? いや、良くわかりませんが。。。

かなり末席状態で恥ずかしいのですが、私も1998年から現在までWIDE番号を持つ会員なので、会員が書いている文章ぐらいの意識で読んで頂ければ幸いです。 なお、この本が出た事を知らない人がWIDE内部にいました。 「折角なら内部メーリングリストで本が出た事を紹介すれば良いのに」と思ったのは内緒です。

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