シリコンバレーの知られざる歴史

2008/2/18

The Secret History of Silicon Valley」というビデオがありました。 Steve Blank氏が2007年12月18日にGoogle社内で行った講演でした。 Google TeckTalksとして講演内容が公開されています。

シリコンバレーの歴史に関しての講演です。 56分の講演です。

以下、要約です。 講演では、多くの写真やビデオが紹介されています。 誤訳などが含まれている可能性が高いので是非元ネタのビデオをご覧下さい。


私は歴史家ではない。 間違っている認識があるかもしれない。 話の多くは公開された文献から引用している。

シリコンバレーには4つの波があった。 Defense(防衛)、Integrated Circuits(集積回路)、Personal Computers(パソコン)、Internet(インターネット)。 シリコンバレーにいる全員が、その期間中にそれぞれをやっていたわけではないが、各時期に各専門性に対する集中が存在した。

今回の話は、皆があまり知らないだろう防衛産業が中心だった時代(図中では1950〜1970頃)について話します。 シリコンバレーは、かつて、また現在もNSA(National Security Agency、アメリカ国家安全保障局)、CIA(Central Intelligence Agency、アメリカ中央情報局)イノベーションの中心であり、頭脳である。

1. 第二次世界大戦:初の電子戦争

第二次世界大戦の映画の多くは爆撃が中心。 それは、多くの映画監督がこの話をしらないから。

1937年9月。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。 1940年夏にはドイツがヨーロッパを制覇し、1941年に西ロシアに侵攻していた。 イギリスは孤立していた。 1941年12月に日本が真珠湾を攻撃してアメリカが参戦した。

1941、42、43、44年中盤までヨーロッパにおけるドイツに対抗するには、戦略的な爆撃を行うしかなかった。 これは、Cobined Bomber Offensiveと呼ばれた。 イギリスとアメリカの爆撃機は、毎日ドイツの産業拠点に向けて発進した。

イギリス機(Lanchesters、Halifax)は夜間に行われた。 Area Bombingと呼ばれる方法だった。 人口を減少されるのが目的だった。 どこを爆撃しているのか把握できなかったため、じゅうたん爆撃を行った。

1942年後半からアメリカが爆撃を開始。 昼間に爆撃を行った。 Precision Bombing。 狙った建物を爆撃した。 B-17、B-24。 輸送手段、燃料、航空施設などの破壊を目的とした。

ヨーロッパ全体で、最大で28000機の戦闘機があった。 40000機が破壊された。 アメリカ機18000、イギリス機22000。 (仮に、現在の世界の全ての民間航空機を足すと15000機。) 当時、16万人の航空関係者が戦死した。

ここからが、映画監督が知らないであろう内容。

ドイツはアメリカとイギリスの戦闘機が離陸した直後から、その事を把握していた。 Kammhuber Line。 Integrated Electronic air defense network。 フランス北部から北部ドイツまで。 ドイツの標的に到達する前に、イギリスとアメリカの爆撃機を察知し、照準を合わせ、破壊する事が目的。

ドイツは、200マイル先から戦闘機の存在をわかっていた。 Mammoth。 1942年から稼動。20機製造された。

中心的なレーダー。 Wasserman。 初期型レーダー。 175マイル。 150機製造された。

戦闘機を察知するネットワーク。 Himmelbelt。 ドイツのAir Defense Network。 20マイル四方ほどに区分けされていた。 レーダー、戦闘機、対空砲、サーチライト。

敵の戦闘機を察知すると、居場所を捕捉し続け、地上の戦闘機に情報を知らせる。 ドイツの戦闘機にはレーダーが設置されていた。 それにより、爆撃機の位置を把握できた。

初期警戒レーダーFreya、90マイル。

Giant Wurzburg、45マイル。 1500機が設置された。

これらのレーダーからの情報はHimmelbeltのAir Battle Air Traffic Control Centerに集められた。 オペレータは巨大なスクリーンの前に座って、戦闘機パイロットに指示を出した。

夜間はレーダーが重要だった。 昼間は戦闘機パイロットに爆撃機の位置を伝えて、後は目視だった。

戦争初期には爆撃機のエスコート用戦闘機は存在しなかった。 爆撃機の防衛は機関銃のみだった。 飛行距離がある戦闘機のP51が登場してから劇的に変わった。

航空関係戦死者の60%は戦闘機だった。 40%は対空関係施設だった。 5000個の対空施設があった。

秋には、雲が無いクリアな日は月に4日ぐらいしかない。 では、どうやって狙いを定めていたのか。 ターゲットの半マイル以内に落ちた爆弾は全体の30%以下だった。

1943年に完成させたのが、空対地レーダーだった。 戦争の末期には、全てのUS/イギリス戦闘機がこの機器を搭載していた。 ターゲットを飛びすぎてしまって任務をキャンセルするという事がなくなった。 地形が見えるだけだったが、地図と一緒に使えば十分予測が可能だった。

さて、ここまでが第二次世界大戦の話だが、これがシリコンバレーとどう関係があるんだろうか?

100回の爆撃任務で4〜20%が帰還しなかった。 家に帰るには25回任務をこなさなければならなかった。 ドイツの対空システムを倒さなければならなかった。 ドイツの対空システムは電子システム。

3. 電子シールド - 電子戦争

秘密の研究所。 Harvard Radio Research Lab(RRL)。

任務は戦闘機の損失を減少させることと、 ドイツの防空網の発見/理解。

ドイツは防空網に関して紙媒体で発表していたわけでもなく、Googleもなかった。 電子的な痕跡から推測する必要があった。

敵のシステム(レーダー)を妨害する必要があった。 極秘だった。 800人が従事。

B-24Jに計測機器を積んで飛んだ。 非常に多くの周波数帯を計測できる計測器を使った。 1942年。 非武装状態で、この戦闘機を飛ばしてシグナルを計測し続けた。 出力、周波数、その他を把握しようとした。

最初のレーダー防止システムは電子的ではなかった。 Window/Chaff Jam Wurzburg AAA & GCI Radar。 レーダーの波長の半分の長さのアルミホイルでレーダーに写らなくなる。 イギリス人はWindowとよび、アメリカ人はChaffとよんだ。

最初に実践で使われたのはハンブルグに対する爆撃の時だった。 1943年に、最初にこの妨害システムを使ったときには、完全にドイツの防空網を無力化できた。 当初は、乗員が爆撃機の後ろにChaffを投げるという方法だった。 自動的にChaffが投下されるのは後の方になってからだった。

これはあまりに重要だった。 突如としてアメリカ全土の3/4のアルミホイルが消失した。 誰も理由を知らなかった。

ドイツの初期警戒網を妨害する機器。 飛行機に妨害装置を設置すると言った。 Wassermann、Mammoth、Freyaを無力化する計画をたてた。

レーダー妨害機器が最初に搭載されたのはエスコート用戦闘機だった。 後に、爆撃機にも搭載された。

次にWurzburgを無力化。 さらに、ドイツの戦闘機に搭載されたレーダーと、通信機器を妨害した。

1944、1945年には、電子的妨害専門の戦闘機が登場した。 武装は全くせず、チャフなどを搭載した戦闘機。 全ての任務に同行するようになった。

さて、誰がこの秘密研究所を運営して、電子戦争の父になったのだろうか? ここが結構重要。 そして、これとシリコンバレーに何の関係があるんだろうか?

Harvard Radio Research Lab。 MIT Radiation Laboratoryからのスピンアウト。 800人が従事。 第二次世界大戦における全ての電子戦争を運営。 1941年〜1944年。

巨大な組織。 これを運営したのは、スタンフォードのFrederick Terman氏(フレデリック・ターマン氏、ビデオ中ではフレッド・ターマン氏と言っています)。

Fredrick Terman氏は「シリコンバレーの父」として知られている。 スタンフォード エンジニアリングの教授、1926年。 学生であるWilliam HewlettとDavid Packardが会社を始める事を勇気付けた人物として知られる。 Frederick Terman氏が軍事関係者であるは、あまり知られていない。 本当のFredrick Terman氏は、シリコンバレーの軍事的集約の父だった。

3. Spook Entrepreneurship

Frederick Terman氏が第二次世界大戦から戻ってきた後に発生した事を説明します。

WWII Office of Scientific Research and Development (OSRD)。 軍隊が「自分達だけではなく、民間の研究機関の力も借りる」と言ったのは初めてだった。 「これをするために、大量の資金を投入する」と言った。

450 million(450,000,000、4億5千万)ドルが武器R&Dに投入された。 MIT 1億1700万ドル。Caltech8300万ドル。HarvardとColumbia3000万ドル。

スタンフォードは5万ドル。 Frederick Terman氏は嫌になってスタンフォードを辞めたら、Radio Research Labにリクルートされた。

Frederick Terman氏は戻ってきてから「このような事が二度と起きないようにする」と言った。 スタンフォードでマイクロ波やエレクトロニクスを強化した。 MITモデルで軍事/大学のコラボレーションを実現する。 二度と政府の予算で取り残されないようにする。

RRLのメンバー11人をリクルートして教員にした。 Electronics Research Laboratory(ERL)をEngineering Departmentの一部として設立。 「基礎的」で未分類な分野を4年間研究。

Office of Naval Research (ONR)の最初の契約を獲得。 1950年には、スタンフォードは西のMITになっていた。

朝鮮戦争が勃発。 ロシアが盟友から敵に急速に変化。 Terman氏の考え方が、この時期急激に変化していった。

冷戦と「黒い」シリコンバレー。 戦線が非常に近くなってしまった。 電子的な兆候などが非常にクリティカルになってしまった。 スタンフォードは、そこが非常に強いと知られていた。 スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の中心になっていった。

冷戦は電子的な戦争だった。 防空システムはドイツの時と比べて格段に進化していた。 大陸間弾道ミサイルが製造された。 どうやって海軍の規模を把握するか。 どこで生産をしているかをどうやって把握するか。 写真だけではなく、電子的な痕跡として証拠を集める必要があった。

スタンフォードが「黒い」世界へ仲間入りする。 Electronics Research Laboratory(ERL)と Applied Electronics Laboratory(AEL)が 1955年に統合されてSystems Engineering Lab(SEL)へ。 ERLは基礎的な事柄を研究し、AELは軍事応用を研究しいた。 Terman氏が学長になるのと同時期。

Terman氏は起業と大学の関係/ルールを変えた人物だった。

それが良いことかどうかに関してのモラル的な話には触れないが、 恐らく、彼は学生に起業を勧める最初の人だったと思われる。 優秀な学生を外に「放り出す」人だった。 教授が学生達をコンサルティングすることを勧めた。 教授が役員(ボード)になることを勧めた。 その他、学生を手伝えるなら何でも。 さらに、知材などの処理を簡単にした。 大学から出て行くのは、学術的なキャリアとして良い事だということを説いた。

冷戦の話に戻ると、レーダーの位置を把握しなければならなかった。 どこにあるのか? レーダー妨害装置製造のために、レーダーの構造を知る必要があった。

冷戦中に撃墜された航空機は23機。 これらは全て電子的に情報を収集する任務についていた航空機。 U-2という戦闘機の多くの部分が電子計測器だった。

4. Spook Innovation

非常に興味深いのは、これらの状況から生まれたイノベーションです。

1960年。Melodyプロジェクト。 ミサイル発射実験で、全く別のレーダーが発信していた電磁波を拾った。 電磁波の送信機と受信機を分けるという発想。 ソ連が発射したミサイルで反射されたソ連のレーダー電磁波を受信した。 それによって、ソ連内奥深くに存在するレーダーの位置を把握した。

OXCART / A-12, U-2Successor。公式名称はSR71。 「Tall King」と呼ばれるレーダーがどこにあるか発見したかった。 レーダーはソ連の奥深くに位置していた。 地球は丸いので、OXCARTの飛べる高度では、地面の死角に入ってしまう。

そのため、月を使った。 レーダー受信機を月に向けた。 月から反射してくる電磁波を利用した。 Tall Kingのシグナルを受信し続ける。 地球と月は回転している。 多くのデータを取り、位置情報をプロットしていく。

Bell研究所が研究をしていた。 「これを使うとかなりわかるけど、大きなお皿がもっといっぱいいる!」と言ったら予算がついた。 スタンフォードに予算がついて「皿」を作った。

Tall Kingの場所はわかった。 ただ、もっと知る必要があった。 Spatial Coverage, Radiated Power, RF Coherence, Polarization。 妨害(ジャミング)とステルスのために必要。 航空機を飛ばして調査。 「思ったより凄い」ということがわかり、航空機の設計変更。

Palladiumプロジェクト。 レーダー受信機の感度、オペレーターの質を知る必要があった。

シリコンバレーに偽の機影を移す機器を作るための会社を設立した。 あらゆる速度の航空機をシミュレートできた。 相手が何を見ているかがミソだった。 レーダーオペレーターが行っている無線通話を傍受した。 リアルタイムで暗号を復号できた。 3年間行われ、膨大なデータを収集した。

Grabプロジェクト。 人工衛星。1960〜1962年。 最初の衛星はElectronical Intelligence satelliteだった。 月を使う必要がなくなった。

POPPYプロジェクト。 海軍が大量の衛星を設置。 海上を監視。

Sylvania Electronics Defense Laboratory (EDL)。 電球の会社と思うかも知れないが、1950年代ではシリコンバレーで二番目に大きな企業だった。 1300人の従業員。 1800万ドルの契約。 1964年、EDLディレクタのWillam Perry氏と6名がElectronic System Laboratories(ESL)という会社を設立。

Frederick Terman。 シリコンバレーにおける大学/軍事産業の集中の父。 「黒いシリコン」バレーを作り上げた。 ESL, Lockheed, GTE Sylvania, Argo, その他。 Bill PerryとESL。 大学が起業を手助けするという形態が、彼の遺産で最も長く残っているものだと思われる。 彼の略歴を見ても、「黒い」歴史に関しては発見できない。 しかし、現在の大学と起業のパターンは良いものとして残っている。 非常にユニークな人物であった。

本当は、ここで話が終わるが、2分で第五の話をしたいと思う。

5. 何故「シリコン」バレーなのか

Unintended Consequences(意図しない影響)。 大学と起業の関係が最も良く見るTerman氏の功績。 軍事関係の歴史は秘密になっている。 シリコンバレーは彼が意図した方向には行っていない(軍事,電磁波,エレクトロニクス,etc...)。 マイクロ波バレーではないのは何故か?

町の反対側では、レーダー爆撃トレーニング会社が創業された。 レーダーに映し出される影が、どの土地のどのような地形であるかを把握するのは非常に困難だった。 あまりに難しかったので、それをトレーニングする必要があった。 彼は、第二次世界大戦後にトレーニングを行う会社を設立した。 Columbia大学の対潜水艦軍備のディレクタだった。 トランジスタ発明者の一人。 1956年ノーベル賞。

William Shockley氏。 「もう一人のシリコンバレーの父」。 1955年にShockley Semiconductorを設立。 カリフォルニア最初の半導体企業。

最高の研究者、才能発掘の天才、そして地上最悪のマネージャ。 世界最高の頭脳を雇用したが、そのうち8名が2年後に退職した。

その8名が、Fairchild Semiconductorを設立。 このFairchild Semiconductorは、後の殆どのシリコンバレー企業の元となる。

Robert Noyce氏とGordon Moore氏がFairchildを辞めてIntelを設立。 AMD, National SemiconductorもFairchildスピンアウトを含んでいる。

そして、シリコンバレーのほぼ全ては彼を頂点としている。 シリコンバレーは、爆撃トレーニング企業から始まっている。

軍のR&Dは、50年代中盤から冷戦終結まで大量の予算をシリコンバレーに投入した。 最も残った利益は、大学と産業のコラボレーションだった。

質疑応答

Q: 何故ドイツはイギリス軍の対空システムを突破できなかったのですか?

Chain Home Radar(イギリスの防空システム)。 非常に皮肉な話。 イギリスのシステムはあまりに原始的で、ドイツのシステムが捕捉できる周波数のはるか下だった。 なんとかやっと動作する程度のものだった。

Q: どうやって偽の機影をレーダーに出したのですか?

機密事項です。

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